マドリードの皮革職人たち——1846年の始まり

ロエベの起源は1846年、スペイン・マドリードにさかのぼる。まず始まったのは、マドリード中心部のカジェ・ロボに工房を構えたスペイン人皮革職人たちの共同体だった。当初は財布、葉巻ケース、ジュエリーケースといった小型の革製品を製造していた。

転機になったのは1872年だ。マドリードに定住していたドイツ出身の皮革職人エンリケ・ロエベ・ロスバーグがこの工房に加わり、スペインの革工芸にドイツ的な精密さと技術的な方法論が持ち込まれた。これが、後に「ロエベ」として知られるブランドの出発点となる。1892年にはカジェ・プリンシペに大規模な店舗兼工房を開設し、マドリードの上流階級から支持を得るようになった。

ロエベの歩みは長いが、節目を年表で押さえると現在の強みがどこから来たのかが分かる。

出来事 意味
1846 マドリードで皮革職人の共同体として始まる クラフトの原点
1872 エンリケ・ロエベが参加 ブランド名につながる転機
1905 スペイン王室御用達の称号を得る 高級ブランドとしての権威を確立
1975 アマソナ誕生 近代ロエベを象徴するアイコンが生まれる
1996 LVMH傘下に入る 国際展開の基盤が整う
2013 ジョナサン・アンダーソン就任 現代的クラフトメゾンへの転換
2015 パズルバッグ登場 新時代の象徴アイテムが確立
2025 新体制へ移行 ポスト・アンダーソン時代が始まる

老舗という言葉だけでは見えにくいが、ロエベは近代以降に何度も自分を再設計してきたブランドでもある。

スペイン王室御用達とブランドの確立

ロエベの名声を決定づけたのが、スペイン王室との関係だ。1905年、アルフォンソ13世からスペイン王室御用達(Proveedor de la Real Casa)の称号を授与された。この称号はブランドの信頼性を裏付けるものとなり、ロエベはスペインを代表するラグジュアリーブランドとしての地位を確立した。

20世紀前半、ロエベはハンドバッグ、トランク、旅行鞄へと製品ラインを拡充していく。1939年にはマドリードのグラン・ビアに旗艦店をオープンし、ブランドの高級イメージをさらに強めた。特にナッパレザー(仔羊革)を用いた柔らかく軽いバッグはロエベの代名詞となり、革の選定から裁断、縫製に至るまで一貫して自社工房で手がける姿勢は、大量生産が主流になりつつあった時代において際立っていた。

アマソナの誕生と国際展開

1975年、ロエベを象徴するバッグ「アマソナ」が誕生した。柔らかなカーフレザーを用い、丸みを帯びたフォルムに南京錠のクロージャーを配したデザインは、実用性とエレガンスを両立させた傑作として評価された。アマソナは半世紀近くにわたりブランドのアイコンとして生産が続いている。

1980年代から90年代にかけて、ロエベは国際展開を加速させた。東京、ロンドン、パリに出店し、スペイン国内ブランドから国際的なラグジュアリーメゾンへと成長を遂げた。しかし、この急速な拡大はブランドアイデンティティの希薄化という課題も生んだ。

LVMH傘下へ——1996年の転換点

1996年、ロエベはLVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)グループに買収された。LVMHの資本力とグローバルネットワークを得たことで、ロエベはさらなる国際化の基盤を手にした。

しかし2000年代のロエベは、グループ内での存在感に苦慮していた。ルイ・ヴィトンやディオールといった同グループの巨大ブランドと比較すると知名度は限定的で、クリエイティブ面でも明確な方向性を打ち出せずにいた。ナルシソ・ロドリゲス、ホセ・エンリケ・オナ・セルファ、スチュアート・ヴィヴァースと短期間でクリエイティブ・ディレクターが交代し、ブランドの軸が定まらない時期が続いた。

ジョナサン・アンダーソンの革命(2013〜2025)

2013年、転機が訪れた。北アイルランド出身のデザイナー、ジョナサン・ウィリアム・アンダーソン(JWアンダーソン)がクリエイティブ・ディレクターに就任したのだ。当時29歳。自身のブランド「JW Anderson」でジェンダーの境界を揺るがすコレクションを発表し、業界の注目を集めていた若手デザイナーだった。

アンダーソンが最初に手がけたのは、ロエベのDNAの再定義だった。彼は「クラフト」をブランドの中核に据えた。単なるラグジュアリーではなく、素材と手仕事への深い敬意。工業的な完璧さではなく、人の手が生み出す温かみと知性。

その哲学が結実したのが2015年に発表された「パズルバッグ」だ。幾何学的に裁断された革のパネルを立体的に組み合わせたこのバッグは、革職人の高度な技術なしには実現できないデザインであると同時に、モダンで彫刻的な美しさを備えていた。パズルバッグはたちまちヒットし、ロエベの新たなアイコンとなった。

続いて「ハンモックバッグ」「ゲートバッグ」「フラメンコバッグ」と、変形・折りたたみが可能な革新的なバッグを次々と発表。いずれもクラフトマンシップと機能性を兼ね備えたデザインで、ロエベのアイデンティティを鮮明にした。

アイコンの系譜を並べると、ロエベが「革のブランド」であり続けながら変化してきたことがよく見える。

アイテム 時期 特徴 ブランド内での位置づけ
ナッパレザー製品 20世紀前半 柔らかく軽い質感 王室御用達時代の品質基準を象徴
アマソナ 1975 実用性と端正さを両立したバッグ 近代ロエベの代表作
パズルバッグ 2015 幾何学的パネル構造 アンダーソン時代の決定打
ハンモックバッグ 2010年代半ば 形が変化する構造 機能性と遊び心の両立
ゲートバッグ 2010年代後半 結び目を強調した意匠 クラフト感を視覚的に伝えるアイコン
フラメンコバッグ 再評価は2010年代後半以降 しなやかなドローストリング構造 過去の資産を現代へ戻した例

同じバッグ中心のブランドでも、ロエベはロゴより構造そのものをアイコン化してきたところが特徴的である。

クラフトとアートの融合

アンダーソンの功績はバッグデザインにとどまらない。2016年に始まった「ロエベ財団クラフト賞」は、世界中の工芸作家を対象とした国際的な賞で、セラミック、テキスタイル、木工など多様なクラフト分野から受賞者を選出している。現代クラフトに光を当てるこの取り組みは、ロエベの「クラフト」への強いコミットメントを象徴するものになった。

店舗デザインにもアンダーソンの美学は反映されている。マドリードのカサ・ロエベをはじめ、各地の旗艦店にはアート作品や工芸品がディスプレイされ、ショップというよりギャラリーのような空間が広がる。ウィリアム・モリスの壁紙やスタジオ・ムンバイの家具と、ロエベの革製品が共存する空間は、ブランドの知的な世界観を体現している。

スタジオジブリとのコラボレーション

アンダーソンは異業種とのコラボレーションにも積極的だ。なかでも2021年に始まったスタジオジブリとのコラボレーションは、特にアジア市場で大きな反響を呼んだ。『となりのトトロ』『千と千尋の神隠し』『ハウルの動く城』のキャラクターをロエベの革製品に落とし込んだカプセルコレクションは、ポップカルチャーとクラフトの融合として話題を集めた。

こうしたコラボレーションは若い世代へのリーチを大幅に拡大し、ロエベはSNS上で最も注目されるラグジュアリーブランドの一つとなった。

新体制への移行(2025〜)

2025年、ロエベは再び大きな転換点を迎えた。ジョナサン・アンダーソンが退任し、その後継としてジャック・マッコローとラザロ・ヘルナンデスが新たなクリエイティブ・ディレクターに就任した。二人はニューヨーク発のブランド、プロエンザ スクーラーを築いたデザイナーデュオとして知られ、現代的な感性とクラフトへの関心を併せ持つ。

アンダーソンが10年以上にわたって築いた「手仕事への敬意」と「知性ある美しさ」は、すでにロエベの中核的な資産になっている。新体制は、その遺産を継承しながら次の時代のロエベ像をどう描くかが問われる段階に入った。

180年の伝統と、現在地

1846年のマドリードの小さな工房から始まったロエベは、約180年の歴史の中で幾度も転換を重ねてきた。スペイン王室御用達の威光、LVMH傘下での国際化、そしてジョナサン・アンダーソンによるクラフト中心主義への転換。そしていま、ブランドは新たなクリエイティブ体制のもとで次の章に進もうとしている。

ロエベの強みは、単なる老舗であることではない。歴史を守りながら、その時代ごとにクラフトの意味を更新してきたことにある。だからこそロエベは、伝統ブランドでありながら、常に現代的なメゾンとして見られ続けている。